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[No.1575]

  • (金)

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「表紙」2015年06月25日[No.1575]号

母娘燦燦

母娘燦燦 — おやこ さんさん — 13

織工房「由(ゆい)」
大城 ヨシ子さん 伊敷 美千代さん 當山 アヤ乃さん

母の機織る音 子守歌にして

 南風原町照屋。細い路地が交差するこの集落は、本部、喜屋武と並び琉球絣(かすり)と南風原花織の産地として知られる。工房が点在する「かすりの道」の一角に大城ヨシ子さん(68)と長女の伊敷美千代さん(49)、次女の當山アヤ乃さん(37)が営む織工房「由(ゆい)」がある。母のヨシ子さんは、伊平屋島から南風原町照屋に嫁ぎ、絣の世界に入った。一方、娘2人は母のおなかの中にいるときから、機織りの音を聞き、絣に囲まれて育った。一時は絣から遠ざかっていた2人だが、今では母と同じ道を歩んでいる。3人それぞれの個性が家族の絆を紡いでいく。



家族で織りなす琉球絣

 県最北端の島、伊平屋島で生まれ育った大城ヨシ子さんが、琉球絣に出合ったのは南風原に嫁いできた18歳の時。義理の祖母から絣織りを習ったのがきっかけだった。ヨシ子さんが幼いころ、伊平屋島では養蚕が盛んで、実家でも蚕を飼っていた。子どもながらに蚕が引き取られていくのを疑問に思っていたが、絣織りを始めた時、その答えに結びついた。「蚕の糸がこんなふうになるのかと思うとうれしくて」と当時を振り返る。すぐに作業にのめり込んでいったヨシ子さんは、一番上の美千代さんが生まれた日も午前中まで機織りをしていたという。

 子どもたちにとっては、織機の音が子守歌代わりだった。ヨシ子さんが機織りを始めるとすぐに眠りについた。23歳からは子どもたちを義母に預け、本格的に絣を学び始める。自宅近くの大城織物工場に約20年間勤務。絣のほとんどの工程を習得した。その後、琉球絣事業協同組合の講師として、約10年間琉球絣の後継者育成にも携わり、1993年には国の伝統工芸士(製織部門)にも認定されている。



3人の歩む道重なる

 ヨシ子さんの仕事を間近で見てきた美千代さんとアヤ乃さん。小遣い欲しさに母や祖母の手伝いをしていたが、この仕事に進もうとは思っていなかったという。

 美千代さんは「苦労とお金は見合わないことも知っていたので、この仕事をやるまいと決めていた」が、31歳の時に転機が訪れる。20歳で結婚後、6人の母になると「他の仕事をするのが難しく、自分の都合に合わせてできるこの仕事を選びました」。琉球絣事業協同組合が主催する初心者向けの後継者育成事業に半年間参加。その後、経験者向けの県工芸支援センターで2年間絣や花織の全工程を習得した。美千代さんも、2012年に母と同じく伝統工芸士(製織部門)に認定されている。

 アヤ乃さんは、2002年、臨時職員の契約が満了した後、たまたま帯を織ってみたところ見事検査に合格。それを機に「この仕事をすると決めた」という。半年間、県工芸支援センターに通い、花織の技法を習得した。

 3人が技術を習得した後、2003年に織工房「由(ゆい)」を立ち上げた。絣や花織は糸繰り、染め、織りなど専門の職人たちの分業体制のもと作られるのが一般的だが、3人はすべての工程を把握している。近隣の工房の下請けもしているといい、同工房では他の工房ができない行程のサポートもしている。

 2008年、アヤ乃さんが結婚した時は、3人で新郎、新婦のために琉球絣の衣装を1年かけて制作した。織り手の力加減が異なるため、複数で織ると織りむらができてしまう絣は、1人の職人が織るのが一般的。3人での作業は難しかったが、みんなの思いが一つの絣を作り上げ、アヤ乃さんをその絣とともに送り出すことができた。

新たな感性が融合

 早くに結婚した美千代さんは、一回り違うアヤ乃さんと過ごせた時間が少なかった。「この仕事をやるようになってから姉妹になった」という。姉妹で絣や花織りのかりゆしウエアを手掛けたり、斬新な色合いの作品を生み出したりと、若い世代のアイデアで伝統工芸の世界に新風を吹き込んでいる。そんな2人を「頼もしい」とヨシ子さんは穏やかにほほ笑む。「私は何も知らないところから始めました。娘たちは私のおなかにいるときから機の音を聞いているので、私より上になるのが当たり前」とさらなる成長に期待を寄せる。 

 「もう少ししたら、姉と2人で世代交代しないといけない」とアヤ乃さんは将来を見据える。姉妹は家族で作ったこの工房をこの先も続けていくつもりだ。母が受け継いだ琉球絣。その伝統は娘たちにも引き継がれ、親子の絆を紡ぎ続けている。 

(坂本永通子)



プロフィール

おおしろ・よしこ
 1947年、伊平屋村生まれ。中学卒業後、那覇に移住し、高校の通信教育を受けながら働く。18歳で結婚し、絣を学び始める。大城織物工場で勤務後、琉球絣事業協同組合で後継者育成に従事。2003年、娘とともに織工房「由」を設立。2男2女と13人の孫、さらに3人のひ孫にも恵まれた。

いしき・みちよ
 1966年南風原町生まれ。南風原高校卒業、呉服店に勤務。結婚・出産・子育てを経て、琉球絣事業協同組合の後継者育成事業や県工芸支援センターで絣や花織の技術を学ぶ。6人の子どもの母であり、3人の孫もいる。

とうやま・あやの
 1977年、南風原町生まれ。4人きょうだいの末っ子。豊見城南高校、沖縄大学短期大学部を卒業後、県の臨時職員を経験後、県工芸支援センターで半年学ぶ。現在は3人の子どもの母。



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織工房由(ゆい)
織工房「由(ゆい)」で、織機に座る大城ヨシ子さんを囲む長女の伊敷美千代さん(左)と次女の當山アヤ乃さん(右)。3人は自分たちで作った絣のシャツに身を包んでいる=南風原町照屋、織工房「由」

織工房由(ゆい)
美千代さん(左)が中学校を卒業する前に撮った家族写真。中央手前がアヤ乃さん
織工房由(ゆい)
美千代さん(右)が31歳のころ。琉球絣事業協同組合の後継者育成事業で講師の母(左)からも技術を学んだ。
織工房由(ゆい)
織機で横糸を通すために、縦糸を上下に分ける作業、「綜絖(そうこう)通し」の作業をするアヤ乃さん
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