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[No.1374]

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「島ネタCHOSA班」2011年07月28日[No.1374]号

ポーク玉子おにぎりは、ハワイ生まれと耳にしたのですが、本当でしょうか?

以前は、親戚が集まる行事などで銀色のシンメーナービが大活躍していましたが、最近見掛けません。消えっちゃったんでしょうか?(2011年07月28日掲載)

「愛し」のシンメーナービ
(沖縄市・Sさん)

 沖縄のスージ・スーコーに欠かせないと思っていたシンメーナービ、表舞台から去ろうとしているのか? 60代以上に話を聞くと、「きょうだいも多かったからね、1日2回も釜に掛けてイモ炊きましたよ」と懐かしむ。資料で「シンメーナービ」を繰ると、「主にイモ炊きや豆腐を作る円すい形の鍋。水28リットル

が沸かせ、米6升が炊ける」とある。また、容量によってニン(二)メー・サン(三)メー・シン(四)メー・グン(五)メーなど”ファミリー“がいる。

 しかし、今どきの生活に照らせば、「きょうだい少ないし、毎日イモばっか食べないし、釜じゃなくIHよ」みたいな話になってくる。一度に2リットルのペットボトル14本分のお湯もいらないし、一度に9キログラムもご飯炊いてどうしろって言うの!?

 経験がすべて

 県内で8割以上の”シンメーナービ・ファミリー“を作っている工場があると聞き、読谷村の「宇良アルミ鋳物工場」を訪ねた。「おじゃましまーす」…あ・暑い。朝10時、工場内は40度を超えている。社長の宇良宗春さん(51歳)が、「アルミを直火で溶かして、100度以上に保たんといかんわけ」と流れる汗をぬぐいながら説明する。床には、椀を伏せたような黒い土の塊と、大きなハチ(八)メーなど、さまざまな大きさの鍋が並んでいる。

 「戦後、親父が沖縄市で工場を興して、那覇を経て、読谷に来たのは僕が8歳ごろかな」

 創業当時の写真を見せていただいた。昭和21年=1946年だが、終戦直後であることは間違いない。従業員もたくさんいて、大忙しだったそうだ。5人兄弟の末っ子である宇良さんも、中学卒業後、すぐ家業に打ち込む。

 「親父や上の兄さんたちが作るのを見よう見まね、体で覚えたよ」と言うように、経験が頼りだ。土の締め方、取り出すタイミング、均等に滑らかに削って仕上げる技にマニュアルはない。アルミの温度すら計りを持たず勘が命。使う道具も全て手作りだ。制作工程を見せてもらったが、男性二人がかりでやっと持ち上げられる重労働とこの暑さ。体力勝負でもある。朝8時から夕方5時まで一日掛けても、4個仕上げるのがやっと。

 やめたらさびしい

 「始めてすぐできるものでもないし、後継者がいない」と寂しそうに言うが、宇良さんが作り続けているのは、今も愛用してくれる人たちの存在だ。「外国産に押されてるって聞くけど、こっちは一から手作り。業務用はもちろん、個人でも離島からも注文が来るしね、工場止めたら寂しいって言われる。注文が続くうちは頑張らないといけないかな」と、自らを奮い立たせるように言う。帰り際、「おみやげ」と渡されたのは、記者に持たせようと前日に作ったという一人用の鍋。「これで食べたらおいしいよ」と笑顔で見送ってくれた。

 職人が生み出すシンメーナービ・ファミリー。博物館でしかお目にかかれなくなったら寂しいじゃないの。来月の旧盆にも、はたまたビーチパーティーにも、大勢集まる場所にはぜひ同席してもらおう。


「愛し」のシンメーナービ
型に詰めた土を返し、成形する
「愛し」のシンメーナービ
手前から、アルミを流し込む前、流し込み中、流し込んだ後
「愛し」のシンメーナービ
熱っされて真っ赤になったアルミは冷えると銀色に
「愛し」のシンメーナービ
宇良宗春さん
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