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[No.1618]

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「表紙」2016年04月28日[No.1618]号

父娘日和

父娘日和 4



音楽家 奥平 潤さん
ピアニスト 奥平 陽子さん

沖縄の心を音楽に乗せて

 50年以上にわたって作曲家・演奏家として活動を続ける、沖縄音楽界の重鎮・奥平潤さん。ポピュラー音楽に演歌、童謡に沖縄民踊などジャンルにとらわれないスタイルで、独自の道を切り開いてきた。合唱団を結成するなど子どもたちの音楽教育にも熱心で、外国人や海外に住む県出身者に向けても沖縄音楽を発信中だ。 そんな潤さんの長女として誕生した陽子さんは、自然にピアニストの道へ。音楽家としてお互いを敬愛し、父娘として信頼しあう2人は「まるで双子のよう!」と家族や友人たちが認めるほど、性格や動作がそっくりなのだという。父の音楽のDNAを受け継いだ娘、2人は才能という絆で結ばれているようだ。



手がけた曲は数知らず

 歌うことが好きで、小学生の頃にボーイソプラノの美しい歌声を褒められたという奥平潤さん。成長と共に音楽に夢中になり、ピアノやクラリネットほかさまざまな楽器を独学で弾きこなすように。高校時代は、ブラスバンド部で活躍した音楽少年も、社会人としての第一歩は、実は教師。

 「小・中学生を教えていました。音楽の授業では会話にメロディーをつけて曲を完成させるなど、生徒と音楽遊びをしていましたよ」と、音楽が常に一緒だった思い出を語った。

 転機となったのは1958年。ミュージシャン主演の映画を見たりバンド活動中の先輩の話を聞いたりするうち、「俺にも絶対できると自信満々で、石垣から本島に出たんです。教師の7倍近くある、バンドマンの給与も魅力でした」。23歳になった頃のこと。

 だが現実は厳しく、すぐにバンドメンバーにはなれず、まずは楽器の運び役から。生活費を稼ぐため、街を歩いて風邪薬などを販売した。そんな生活をしていた時、県内各地で映画館の集客イベントとして「のど自慢大会」が開催され、アコーディオンが弾ける潤さんに声がかかった。「出場者の歌を聞き取って楽譜にし、伴奏を担当しました」

 演奏家としてついにプロデビューを果たした潤さんは、米軍関係者が訪れるクラブの専属バンドも結成し、音楽活動を広げていくことになる。



父娘でありライバル

 27歳で結婚した潤さんは、3人の子宝に恵まれた。ピアニストとして活躍する長女の陽子さんは、音楽の道に進もうと決めた事はなかったが、自然にピアノを習得したそうだ。  「物心ついた頃からおもちゃ感覚でピアノを触っていました。音楽家の娘だから同じ世界に行くのは当たり前というレールに反発した時期もありましたが、私にはピアノしかなかった。音楽界に入れてくれた父、支えてくれる母に心から感謝しています」と、幸せをかみしめる。

 そして実の父でありながら「師匠であり、超えられないライバル。父に少しでも近づく事が、私の目標なんです」と真っすぐな視線で話す。

沖縄らしさを曲に

 「音楽で沖縄を表現し、一番の存在になろう」という潤さんの志は、20代から変わらない。 自然や文化、人との触れ合いをテーマに、ジャンルにとらわれない奥平メロディーに乗せた新曲を次々と発表中だ。散歩の途中、家族との食事時間、また睡眠中に夢で浮かんだメロディーをすぐさま書き止めるため、紙とペンが必需品だという。

 合唱団を県内各地で結成し、東京ディズニーランドでミュージカルを演じるチャンスをつかみ、バレエ公演のための組曲創作ほか、子どもたちに夢を与える活動も数多く実践してきた潤さん。入院中に無理をして即手術になった。東京の歌手が弟子入りを希望して沖縄に飛んできた。基地内でディナーショーを開催し菅原洋一さんや故・江利チエミさんらがゲスト出演したなど、活動中の貴重なエピソードは数え切れないほどだ。

 「音楽は天命。皆さんも自分の楽しみ方で音楽に親しんでいただきたいですし、仕事にしたい人は名誉や金もうけを意識せず、徹底的に行動してほしい」と潤さんは若者に向けてメッセージをくれた。

 「僕が作る音楽は、沖縄の心として数百年たっても残り続けます」という潤さんの言葉も心に響く。

 師である潤さんから「お前は技術的に僕を超えた」と言われ、うれし涙を流した陽子さん。「年齢を気にして、父は時たま弱気な発言をしますが、一緒に弾くとまだまだ大丈夫と確信します。音楽の巨匠はたくさんいても、私にとって父は世界一。ずっとついていきます!」と誓う。毎年開催している父娘共演コンサートは、今年はいつなのかと大勢のファンが待っている。

(饒波貴子)



プロフィール

おくだいら じゅん
 1935年伊江島生まれ。八重山高校卒業後に教職に就いたが、プロの音楽家を目指し沖縄本島へ。米軍基地を回るバンドを手伝いながら、創作活動や舞台出演など自身の活躍の場も広げ、基地内クラブでのディナーショーや県内外でコンサートを開催。少年少女合唱団や音楽家の育成にも努め、ジャンルにとらわれない沖縄音楽の発信を続けている。音楽制作の源は子どもの頃に住んだ与那国、宮古、台湾、八重山などの島生活での体験で、ピアノやアコーディオンほか楽器演奏は独学でマスターした。「黒潮の闘魂」、「遙かなる慕情」をはじめ作詞、作曲、編曲、数多くの曲を手掛けている

おくだいら ようこ
 3歳の頃から父・潤さんの膝に乗ってピアノを弾き始めるなど、導かれるように音楽の道を歩む。高校卒業後に東京の音楽大学へ進学し、大学卒業と共にホテルの専属ピアニストに(約8年)。保育園・幼稚園での音楽講師としても活躍するほかイベントやコンサート出演も重ね、ピアノ講師も継続中



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奥平潤さん奥平陽子さん
「音楽界のオンリーワン」を目指し創作活動を続ける奥平潤さん(写真左)と、受け継ぐ娘の陽子さん。何でも話す友達のような父娘関係で、ピアノ共演時は息の合った演奏を披露する=沖縄市美里の「織音ミュージック学院」 
写真・村山望
奥平潤さん奥平陽子さん
2014年、ピアノ2台によるコンサートを開催
奥平潤さん奥平陽子さん
共演コンサートポスター撮影時の2人(2013年)
奥平潤さん奥平陽子さん
米軍基地内でバンド演奏し、アコーディオンを弾いていた潤さん(1960年代)
奥平潤さん奥平陽子さん
自身の結婚式でピアノ演奏をする潤さん(1962年)
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