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[No.1573]

  • (金)

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「表紙」2015年06月11日[No.1573]号

母娘燦燦

母娘燦燦 — おやこ さんさん — 11

対馬丸の語り部 平良 啓子さん
平良 次子さん (南風原文化センター学芸員)

命の体験、語り継ぐ

 沖縄戦が終結して70年が過ぎた。戦争体験者が減っていくなか、9歳で学童疎開船対馬丸撃沈の悲劇を体験した平良啓子さん(80)は、生存者の1人としてその体験を語る活動を続けている。祖母、兄、何より一緒に付いてきた仲良しのいとこが帰らない悲しみは、今なお平良さんの胸をふさぐ。次女の次子さん(52)は「母は体験を話したり記録を残したりしてくれた。一方で事情があって戦争体験を話せない人、話す機会がない人がいる。戦後生まれの世代は、その人たちに寄り添って話せる機会をつくっていければいい」と、戦争を体験しない人の役割があると語る。



体験は後の生きる力になる

 川遊びが大好きで泳いだり潜ったり、やんばるで生まれたおてんばな女の子は9歳のころ、一般疎開者に交じり学童疎開船対馬丸で内地疎開することになった。1944年8月21日、啓子さんの祖母、長男嫁、兄、そして隣家の同年のいとこは、那覇国民学校の児童や一般疎開者、兵隊員ら1788人と船出した。

 対馬丸は船出から27時間後、トカラ列島悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号に撃沈される。海へ放り出された子どもたちや大人は、いかだを見つけてすがるか、泳げるかで生死を分けた。

 「小さいころから安波川で水遊びしたから、海面に浮かぶ死体をかき分け、しょうゆ樽(だる)にすがって顔を浮かせ、重油を飲まずにすんだ」

 それから6日間の漂流が始まる。人食いザメが小さい生徒を引きずり込むのを見た。

 漂流中、対馬丸が積んでいた蚕(かいこ)が洋上に浮かんでいて、「わたしはその蛹(さなぎ)が食べられると分かるので口にするけど硬くてかめない。漂流3日目に、飛行機から遭難者に投下したらしい竹筒が浮かんでいて、小豆ご飯が詰められていたの」 

 悪石島付近は潮の流れが速くて、啓子さんが乗ったいかだは南へ、奄美大島の方へと流された。そして陸が近いと感じたのは、あの安波の海で聞いていた寄せては返す波の音。啓子さんを乗せたいかだは奄美大島近くの無人島に漂着した。



祖国復帰運動に投じる

 戦後、啓子さんは母校の安波小学校の臨時教諭に就き、教員人生が始まった。そして仲間の教員と連帯し沖縄の祖国復帰運動に身を投じた。25歳のとき伴侶となった人は高校教員の平良真六氏。1957年ごろ、沖縄は政治の季節のただ中にあって、真六氏も多くの教職員とともに時代の渦中にいた。熱血漢であったいう。安波小学校、東小学校などに赴任し、夫の転勤に伴い宜野湾市に居を構える。夫婦ともに祖国復帰運動に明け暮れ、闘う日々に、姑は「孫をみるから行っておいで」と協力したという。

 「その優しさは今に通じる。沖縄が大変な状況を迎えている今、子どもを預かるから、現場で訴えておいでと見送ってくれるお年寄りがいることを知っている」と、次子さんは言う。小学生のころ、両親が歌った祖国復帰運動の歌を友だちに指導したという気持ちの熱さは父親譲りのようだ。家族は9年後再び大宜味村に戻った。4人の娘がたて続きに生まれた末に喜如嘉で男児に恵まれた。



語り部を生きる糧に

 教員生活40年目にして退き、対馬丸の生き残りとして悲惨な体験の語り部の活動を本格化させた啓子さん。いまだ同じ歳のいとこが帰ってこなかったことが一生の悔いだと言い、「あなたは帰ってこれたからいいね。娘を太平洋に置いてきたの?」と話すいとこの母のことばが啓子さんを突き動かす。

 そんな啓子さんの気持ちを推し量って、次子さんは「戦争が戦後に生きた人々の人間関係を複雑にした。母は体験を証言する機会があり、記録を残してくれた。一方で、私は戦争体験を話せない人の気持ちも分かるし、話す機会がない人々がいることも分かる。戦後70年がたって、状況は思いもよらない方向へ向かってはいないだろうか。戦争を体験していない人たちはそうした体験者の緊張を解いて、話せる環境をつくっていく必要がある」と話す。

 次子さんは啓子さんの講演を聞くたびに新しい事実を発見するという。  6月、沖縄はあの悲しみの日を思う季節だ。啓子さんはこの月いつもより多く講演を行う。語り部の活動が啓子さんの生きる糧だ。

伊芸久子/写真・喜瀬守昭(サザンウェイブ)



プロフィール

たいら・けいこ
1934年国頭村字安波生まれ。9歳の時、家族とともに集団疎開者として、対馬丸に乗船。6日間の漂流の後、奄美大島で救助される。戦後40年間の小学校の教員を経て、退職後もその体験を語り伝える活動を続けている。大宜味村喜如嘉在住。大宜味9条の会会長

たいら・つぎこ
1962年生まれ。大宜味村字喜如嘉出身。琉球大学法文学部社会学科社会人類学専攻。1986年卒業後渡米。1988-1989年県費留学でインドネシアへ。帰国後、1987年から南風原文化センター設立準備室嘱託職員。1993年南風原町教育委員会採用、現在に至る。学芸員。南風原町在住



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たいらけいこたいらつぎこ
1男4女、16人の孫、ひ孫に恵まれた平良啓子さん。次女の次子さんいわく「パワーがあって、スイッチが入るときっぷのよさで笑いを誘ったり、孫たちをただしたりするカリスマおばあに」。次子さんはこの日の取材に合わせて帰郷した=大宜味村喜如嘉

たいらけいこたいらつぎこ
安波小学校の臨時教員のころ
たいらけいこたいらつぎこ
平良啓子さん19歳のころ
たいらけいこたいらつぎこ
啓子さんと次子さん。対馬丸事件から60年目。南風原町子ども平和学習交流団と九州へ 2004年
たいらけいこたいらつぎこ
対馬丸記念館での講演会 2005年
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