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[No.1872]

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「島ネタCHOSA班」2021年03月25日[No.1872]号



 おばあちゃんが「昔は沖縄にも馬がいたんだよ」と言っていましたが、本当ですか?

(匿名希望 T・Kさん 中学生)

昔の沖縄の馬事情!?

 馬といえば競馬や時代劇、西部劇を思い出す調査員。沖縄にもそんな時代があったのでしょうか?

みやげと競馬

 まずは市町村の歴史を調べてみます。『那覇市史(那覇市)』(※1)から開いていくと、「沖縄は古来馬の産地で中国への進貢(輸出)も島内産は馬と硫黄であったという」との記述。次いで「平良真地(平良馬場)での競馬は戦争直前まで首里を中心に沖縄を二分し、島尻方と中頭方で勝負する大競馬であった」。沖縄でも競馬が行われていたとは!

 さらに「競馬といっても、馬を飛ばすのではなく、『脚組す(アシクマスン)』といって、早足(一本の脚を常に地につく)で勝負させた」(同市史)、「馬勝負は速さだけでなく、馬の姿態・動作の良し悪し、馬具の華やかさ・美しさ、乗り手の若者のりりしい姿が審査の対象になった」(※2)と、次々とヒントが見つかります。

 「馬場は県内各地178カ所、ピーク時には馬が4万7千頭。(中略)馬勝負の日、馬場周辺には玩具や駄菓子などの露店が開かれ、タンナファクルーやハチャグミなどのお菓子を買って食べることが子どもたちの楽しみであった。一方、年配者の楽しみは馬勝負を見ながら酒を飲むこと」など、競馬は皆から愛されていたようです。

馬を追って

 琉球王国時代、尚家直轄の馬場で最大規模だったといわれているのは、那覇市「識名馬場跡(しきなばばあと)」。識名園から識名宮に向かって約300㍍進み、右手の道案内図から右折すると、徒歩3分ほどで案内板が見えてきます。

 各地の馬場が沖縄戦などで元の形が失われているなか、当時の面影を感じさせるのは「今帰仁村仲原(なかはら)馬場」県指定文化財(史跡)と宜野座村の「松田の馬場」(※3)。

 宜野座村立博物館の文化財・博物館係主任、石川耕さんは「松田の馬場をつくった人は、首里から松田に来た『ティーラタンメー』という人といわれていまして、民話に残っています。当時は各字に「馬追い(ンマウイ)=馬場」があり、『ンマハラシー(競馬)』などで馬が活躍していたことが文献に書かれています。ちなみに宜野座村のガラマン岳は『からうま』(=鞍がのっていない馬)という言葉から由来しているという一説もあるんですよ」と、にっこり。

 その後、各職員さんが「ガラマン岳」、「ティーラタンメーの屋敷跡」、「漢那の馬ガー(池)」などを丁寧に案内してくれました。宜野座村博物館の正面玄関には、昔の写真とともに馬車が展示されています。

 最後にもう1カ所。現代の沖縄でも馬に乗ることが出来る貴重な「夢有民(むうみん)牧場」(今帰仁村)では、馬に乗って森の中を歩く乗馬体験や、馬とのふれあい、ファームステイなどのサービスを提供。ピーク時は年間約2万人のお客さんが利用してきたとか。

 取材時は、ちょうど3・11に福島から出発した馬が到着したばかり。輸送の縁を繋いだチームの庄司明日香さん・修さん(ハイビスリゾート)は「馬が沖縄に来れたのは奇跡に近い」と話します。

 牧場代表の山中利一さんは、沖縄復帰直後に神奈川県から来沖して以来、50年ずっと牧場経営。「馬は乳搾りがないし角がないから良い」と、くしゃっとした笑顔を見せます。これにて、馬追い終了!



宜野座村立博物館
☎098-968-4378
夢有民牧場
☎0980-56-4170

※1 『那覇市史』資料編第2巻中の7(那覇市)
※2 平成14年度沖縄総合事務局委託調査「沖縄県における馬場跡の調査報告」(株式会社国建)
※3 文献には別の呼び名も見られますが、現地の案内板表記によりました。
他、繁多川100周年記念誌「繁多川」、「宜野座村乃文化財目録」等も参照。

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昔の沖縄の馬事情
宜野座村立博物館の皆さんと石川耕さん(上段中央)
昔の沖縄の馬事情
「仲原馬場」(今帰仁村)
昔の沖縄の馬事情
(左から)夢有民牧場の金城音華さん・高橋虹絵さん。(右から)山中利一さん・明美さん、ハイビスリゾートの庄司修さん・明日香さん
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