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[No.1637]

  • (金)

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「島ネタCHOSA班」2016年09月08日[No.1637]号

「二中前」が消えた

 県内中部に住んでいる私ですが、県立那覇高校出身。青春を過ごした「那覇市字二中前」という住所が、いつの間にか消失したと聞きました。現状やいきさつを調べてほしいです。

(北谷町 那覇高卒の60代)

「二中前」が消えた!?

 那覇高校周辺が「二中前」と呼ばれていた記憶が、調査員にもあります。この「二中」について調べてみると…。1910(明治43)年4月 、「沖縄県立中学校分校」として首里城内に創立。翌年には「沖縄県立第二中学校」として独立し、1919(大正8)年に嘉手納から現在地へ移転。1948(昭和23)年 2月に高等学校として独立認可を受けたのが「那覇高等学校」の沿革の一部です。現住所は「那覇市松尾1丁目」になっていますが、この地域は今どうなっているのでしょうか?

5年前に消失!?

 調査員はまず那覇市役所を訪ね、都市計画部・地籍調査課の渡慶次力課長と技師の屋比久明仁さんに話を聞きました。

 「二中前という地名は、那覇高校の前身である沖縄県立第二中学校から由来していることは、多くの方がご存じだと思います」と前置きがあり、説明が進みます。

 1936(昭和11)年ごろ字楚辺から分離して、「字二中前」という地名が誕生したとのことです。調査員も市が保管している旧地図を見ましたが、「字二中前」が確かに存在しており、那覇高校の施設や城岳公園が含まれていることを確認しました。

 「戦後の町界町名整理以降、1971(昭和46)年に字二中前の一部が泉崎1丁目になりました。続いて1979(昭和54)年には那覇高校敷地を含む一部が松尾1丁目に、1981(昭和56)年には那覇高校の向かい側が楚辺1丁目になりました。そして残っていた地域が2011(平成23)年に泉崎2丁目となり、字二中前がなくなってしまいました」と渡慶次さん。

 「字二中前」という地名の歴史は4回の町界町名整理を経て、幕を閉じたことが分かりました。住所が複雑、区域が入り組んでいる、境界が分かりづらい、名前が難しいなどの理由がある地域については、町名の区切りを明確にしていく事業が町界町名整理です。大きな道路や河川などを境目にして面積の大小など考慮し、歴史上由緒のある地名や住民に慣れ親しんだ地名を残す計画を立てます。その後説明会や審議会を開き、住民の同意を得た上で慎重に実施していくそうです。

 「規模が小さくて中央に道が走り、歴史が浅い。現在二中という学校も存在しないという理由で、字二中前という地名はおそらく消えていったのでしょう」と、渡慶次さんと屋比久さんは話していました。

 那覇市内で住所に「字」が付いている地域は、「今後町界町名整理を進める方針です」と教えてくれました。

名物は市場と餅

 約75年にわたって存在した字二中前。その名残はあるのかと、那覇高校近辺を歩いてみた調査員。銀行支店名、パン屋、鍵屋の看板に「二中前」と書いてあるのを発見しました! そして付近では知らない人はいないという「二中前ストアー」の店員を直撃。

 「前の通りが”二中前市場“で、魚屋・肉屋・八百屋などの生鮮食品をはじめ、薬や日用品の店舗が並んでいました。何でも買えましたよ。大型スーパーが市内に増えたのと引き換えに、市場の店舗は1軒ずつ閉店していきましたね」と話してくれました。二中前の名物といえば「餅」で、有名店があったそうです。

 1972(昭和47)年オープンの二中前ストアーは開業44年目を迎えた現在も、野菜や総菜に飲み物、雑貨などいろいろな品を販売中。二中前に思い出のある方は買い物に行くときっと、懐かしさを感じると思います。

 「二中前の人は引っ越さず、ほとんど残っています」という現状も教えてくれましたので、居心地がいいのでしょう。那覇の中心ともいえる場所にあり、静かで昔ながらの風情を感じる地域だと感じました。「字二中前」という住所表記はなくなってしまいましたが、「二中前」という地名があった事実はこれからも伝え残してほしい…。そんな気持ちになった調査員でした。



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「二中前」が消えた
那覇市の正確な地図を作成する都市計画部・地籍調査課。町界町名整理も業務の一部
「二中前」が消えた
老舗パン屋の二中前店
「二中前」が消えた
二中前ストアー(写真右)脇の小道は、二中前市場としてかつてにぎわっていた
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