沖縄の日刊新聞「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」沖縄のローカル情報満載。



[No.1579]

  • (木)

<< 前の記事  次の記事 >>

「表紙」2015年07月23日[No.1579]号

母娘燦燦

母娘燦燦 — おやこ さんさん — 17

豆腐よう工房 友よせ
友寄 千枝子さん 国場 有子さん

母の生きがい支えて

 沖縄を代表する珍味、豆腐よう。琉球王朝時代、王族や貴族しか食べることができなかった秘伝の高級食品だ。島豆腐を黄麹(こうじ)、紅麹、泡盛などに漬け込み、温度などの徹底した管理の下、半年以上寝かせて作っていく。そんな豆腐ようを作っている友寄千枝子さん(82)と娘の国場有子さん(53)母娘。母が研究を重ねてたどり着いた無添加の豆腐ようは、滑らかで癖が少ない。苦手な人でも食べられるというのも納得だ。レシピも何もない状態から、商品化できるようになったのは、無我夢中で走り続けた母と、それを追い続ける娘の努力の結晶だ。



使命感に突き動かされ

 友寄千枝子さんが豆腐ようの研究を始めたのは50代後半。子育てが終わって、これからの人生に生きがいを持ちたいと思っていた矢先に、「豆腐ようは沖縄の大事な食文化だから」と沖縄の食文化に造詣の深い知人に勧められたのがきっかけだ。

 実は、千枝子さんには、高校生のときの苦い思い出がある。戦後間もないころ、食通の父が豆腐ようを見つけ、喜んで帰宅。「沖縄の殿様じゃないと食べられない食材だよ」と言われて味見をした。「まずくて、食べ物じゃないと思いました」

 それ以来、豆腐ようのことは考えたこともなかった。まったく構想外のことを言われ、「好きじゃないと熱中できない」と返したが、当時、豆腐ようの作り手には跡継ぎがおらず、「沖縄の食文化のために研究する人が必要。子育てが終わり、時間に余裕がある人にしかできない。シルバー産業として盛り上げていくべきだ」と説得され、「すっかり乗せられてしまいました」とほほ笑む。



ゼロからの挑戦

 千枝子さんは、一度始めたらのめり込む性格。無我夢中で、研究にいそしんだ。とはいえ、豆腐ようは珍しい食べ物。食べたことがある人もほとんどいなかった。「レシピも見本となるものもなく、教えてくれる人もいませんでした」

 作っては失敗し捨てる、の繰り返し。原料の泡盛や麹菌の講習会などに参加し、自ら勉強を始めた。豆腐店を20〜30件回っていろいろな島豆腐でテストする。味や水分量などが一番合うものを探すということから始めた。それもすべて自分の感覚だけが頼りだ。仕込み後は、温度調節のために夜中に3回も起きた。「子育てより難しかった」と当時を振り返る。そうして何十年も経ち、だんだんと出来上がり具合が分かってくるようになったという。2001年には「豆腐よう工房 友よせ」をスタートし、自宅3階の一角を工房にした。

 娘の有子さんは、当時母が言った言葉を今でも覚えている。「夜中までずっと考えていて、すごいと思ったことがあるの。島豆腐が別物になるのよ!これを考えていたら楽しくて、一晩中眠れなくて」と興奮気味に話していたという。千枝子さんにとって豆腐ようは生きがいになっていた。

さらなる進化を追求

 結婚・出産を経て、専業主婦になっていた有子さんは、16年前母から豆腐よう作りの手伝いを頼まれる。初めのころは「どれだけ捨てたか分からない」ほど、失敗の連続だったという。軽い気持ちで手伝い始めたが、今では工房がある3階に有子さん一家が住み、豆腐ようの状態に合わせて生活をしている。豆腐ようは「生き物」と2人が言うように、毎回発酵具合が違う。季節によっては、仕事を終えるのが午前0時を過ぎることもあるという。

 「母は、仕事では師匠。迷ったとき、意見を求めてその通りにすると一人で考えてやるよりもよくなるんです」。16年と約30年という経験の差はまだまだ大きいという。「好奇心旺盛な母に、私はひたすらついていくだけ」という娘に対し、「豆腐よう作りは力仕事。私ができないことをしてもらっている。彼女なしでは続けられない」という母。まさに二人三脚だ。

 「ありがたいことに、お客さんに恵まれている」という千枝子さん。宣伝や広告も行ったこともないが、リピーターや口コミで客が増え続けている。泡盛はもちろん、お茶やワインにもよく合う。健康志向の方にも楽しんでもらえるということを広めていくのが目標だ。

 失敗の繰り返しでようやくできた味。でも、「まだまだ終わったわけではない。満足していないです」と千枝子さん。さらには、8年ものも作ってみたいと目を輝かす。

 これからも親子の挑戦は続く。2人で育てる豆腐ようのさらなる進化が楽しみだ。

(坂本永通子)



プロフィール

ともよせ・ちえこ
 1933年那覇市生まれ。産婦人科医の父の開業にともない、2歳から名護市に移住。高校卒業後、1953年、兄と弟とともに船で東京都へ渡る。昭和女子大学短期大学部食物科に入学。卒業後、帰沖。名護市の保健所に就職。1年半後に結婚し専業主婦に。2001年に「豆腐よう工房 友よせ」をスタート。3人の娘と6人の孫にも恵まれた。

こくば・ゆうこ
 1961年那覇市生まれ。3人姉妹の3女。高校卒業後、東京都の短大へ入学。卒業後は東京の会社でキーパンチャーとして勤務。2年後、帰沖。結婚後は専業主婦として家庭を支える。16年前から母の豆腐よう作りを手伝い始める。1男1女の母でもある。

豆腐よう工房 友よせ
那覇市松尾1-4-13 3階 ☎098-861-0979
(10時30分〜19時、日曜・祝日定休)
http://www.tomoyose-toufuyou.com/



このエントリーをはてなブックマークに追加



豆腐よう工房 友よせ
友寄千枝子さん(右)と娘の国場有子さん(左)。自宅3階の一角で徹底した温度管理の下、手間暇掛けて豆腐ようを作っている=那覇市松尾、豆腐よう工房 友よせ
写真・村山 望
豆腐よう工房 友よせ
豆腐よう談義に参加したときの千枝子さん。自作の豆腐ようを手に持っている
豆腐よう工房 友よせ
千枝子さん(左)と幼いころの有子さん
豆腐よう工房 友よせ
約8年前に自宅兼工房で撮った写真
豆腐よう工房 友よせ
半年以上熟成させ、完成した豆腐よう
豆腐よう工房 友よせ
自宅の一角で豆腐ようを熟成。温度は1年中16度に保たれている
>> [No.1579]号インデックスページへ戻る

↑このページの先頭へ戻る

<< 前の記事  次の記事 >>