一銀通りと誰が呼んだか。歩いてみると、名前に「一銀」とつくマンションや駐車場を見つけることができる。国際通りに面した通りの入り口には海邦銀行松尾支店があるが…ここが「一銀」という名前だったのかな?
「その件に関しては面白い写真があるんです。見に来ませんか」
と、同行年史編纂室の野国昌一室長(五一)は手ごたえばっちり。さっそく本店を訪ね、見せてもらったのが見出しの写真二枚だ。
「整地中の写真では、海が見えるでしょう。今の松尾支店の場所から、当時は波之上まで見渡せたんですね…」
そして完成したのが第一相互銀行本店。昭和三十一年から営業を開始、一号線(現在の国道五十八号)へ通じるそばの道路も「一銀通り」と呼ばれるようになった。ちなみに「一銀」は後に沖縄相互銀行と合併して中央相互銀行となり、復帰時「本土に同じ名の銀行がある」という理由で沖縄相互銀行(沖縄海邦銀行の前身)と改名されたそうだ。
「構造は当時のままで、金庫も一銀当時のものだそうです」
なんと。第一相互銀行は、屋上に据えられた大時計の鐘の音で街の人々に親しまれたという。
「イギリスのウエストミンスター大聖堂の鐘を再現した音だったそうですよ。六十代くらいのお客様に『ここにあった大時計の鐘の音が懐かしいよ』と窓口で声を掛けられた時はうれしかったです」
どんな響きだったんだろうな。想像すると、こちらまで懐かしい気持ちになってくるのである。
ジッカンジ、とは那覇市の崇元寺石門から沖映通りのダイエー前に抜ける細い通りを中心にした一帯だという。表記を確認すべく「那覇百年のあゆみ」(那覇市編纂)を開くと、昭和四年ごろの市街を再現した地図には、確かに「十貫瀬ヌ前」とある。
試しに歩いてみると、ぽつぽつと小さな飲み屋がある以外はひっそり…やっと一軒開いているパン屋の「らいぶら」を見つけて尋ねると、向かいの店は古くからありますよ、と店主さんの指差す先に「ミッキー洋装店」なる店が。
店の主は知名朝徳さん(六九)夫妻で、ここに店を構えてなんと四十三年。この辺りはかつて風俗営業店が建ち並ぶ歓楽街で、洋裁を修めた夫妻は、ここで働く女性たちを見て「商機あり」と店を構えたのだ。そうそう、ジッカンジの由来を聞かなきゃ。朝徳さんが笑いながら教えてくれた。
「十貫というのはお金でね、村芝居にもなった話だよ。僕が聞いたのはね、昔ある宮古の人が那覇に奉公に来て十貫もうけたって。飲み明かすうち肝心のお金を忘れて帰りの船に乗ってしまって、仕方なく一農期終わらせてから那覇に戻って、もうないはずね…と落とした辺りの地面を探したら、まだそこにあったんだって」
だから十貫地、というわけだ。十貫瀬の表記もあるが、お察しの通りこの一帯はかつては海(王府時代、長虹堤という橋が若狭向けにかかっていたという記録も)。
「表記のことは、ここに通堂辺りから来る客の間でよく話題になりよったね。酒飲むと『瀬らる』『あらん、地ぃれる』って」
酔っ払うおじさんたちの声が聞こえるようだ。最盛期には美容室四軒、洋装店も三軒あったという
“紅灯の巷”の喧騒は鳴りをひそめた。今、ジッカンジと聞いてピンとくるのは、タクシーの運転手さんくらいなのかもしれない。 |
諸見百軒通り、という通りが沖縄市園田にある。諸見里の給油所から入って二、三分も歩けば反対側に出られる短い通りに、本当に百軒もの店があったのだろうか。諸見社交業組合の組合長、宇久田テイ子さん(七八)に連絡してみると、夫の朝彦さん(八六)が詳しいという。訪ねてみよう。
「国道三三〇号ができる前は、ここが表通りだったんですよ。店も大阪商人の方々が外国人相手に経営する土産屋が主でしたが、国道ができると軒並み移って、こちらは閑散としてしまって…」
そこで、通りを盛り立てようと残った店舗の主たちが通り会を結成。当初の諸見旧通り会という名称が古くさい、と会員から募った中にこの名があった。
「ほぼ百軒あるから、と出した人がいてね。覚えやすいなぁと」
当時、百軒通りで冷やし物店を夫婦で営んでいた朝彦さんは初代の通り会会長に。時は昭和三十年代初頭、Aサイン店の空港通りやセンター大通りなど米軍属向けの地区と違い、地元の人の社交街として、五軒の料亭(静波、若藤、清福、高見、ミシマ)を中心ににぎわった。でも復帰後はもうからなくなって…とテイ子さん。ふと笑って、別称を教えてくれた。
「“年金通り”だって。若手が四十代という通りだのに。わたし組合長だからまとめて税務署に申告に行ってたけど、役場の人まで冷やかすから『いいえ、現金通りですよぉ』って言ったの、ははは」
通りに出て看板を数えて歩くと七十一軒。確かに貸し店舗の張り紙が目立つ。高齢化に加え女手一つの所帯も多く、二千五百円の月会費を払えず組合を抜ける店も増えているという。そんな通りも、旧盆には園田や山里、桃原や諸見から集うエイサーガーエーの舞台となるそうだ。エイサー好きな通り会会員の発案だという。世の中不景気だけど、思わず肩入れしてしまう味わいのある通りである。
千日、といえば那覇市久米にある冷やし物の老舗。広く親しまれた店主の金城春子さん(享年八〇)が昨年亡くなった後、末娘の小坂れい子さん(四六)と長男・二男のお嫁さんたちが仲良く店を盛り立てている。なぜ千日? という素朴な疑問に、れい子さんが働く手を休めて答えてくれた。
「五十年くらい前ですが、父の新五郎(故人)は年に二回ほど、当時は珍しかった飛行機に乗って仕事で大阪へ行ったんです。千日通りってありますよね」
食い道楽の街にあやかった名前だったのだ。ちなみに次女・千子さんにも縁のある命名である。
「当時は与儀小学校前とこの久米に店があって、払い下げの粉ミルクで作った『おっぱいアイスクリーム』とか一セントのアイスバナナとか、面白いアイデア商品もあったんですよ」
れい子さんの幼いころ、店のすぐそばにバスターミナルがあり、波之上へ来て海水浴で遊んだ人たちが帰りに立ち寄って繁盛した。お正月には、なんと千日の辺りまで初詣の行列ができたという。時代とともに、千日も変わるのか。
「いえ、父は几帳面な人で、金時豆を何グラム、とか冷やぞうめんのだしもシイタケ何グラムをどのように…って作り方を書き留めて遺してくれたんですよ」
かくして、千日の味は今も昔も変わらないのである。納得。
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というわけで、今週の編集部ルポは一から千まで十倍飛びで由来を習ってまいりました。魅力あふれる沖縄のトリビアを掘り起こし、多くの方々に教わりながらレキオも千号を数えました。読者の皆さま、今後ともユタシクウニゲーサビラ(よろしくお願い致します)。
(松田尚子) |
一銀通りの名前の由来となった第一相互銀行(現・海邦銀行松尾支店)
現在の十貫瀬通り
知名朝徳さんと妻の和子さん
諸見百軒通りの入り口には看板がある
諸見百軒通りの盛衰を見守ってきた宇久田朝彦さんとテイ子さん夫妻
冷やし物といえばココ、千日
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