沖縄の日刊新聞「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」沖縄のローカル情報満載。



[No.1737]

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「ワシントコポスト」2018年08月09日[No.1737]号

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新しいバス停

 最寄りのバス停留所が新しくなりました。屋根が付き、ベンチもできました。
 2日続きの大雨も上がり今日は晴れ。舗道のコンクリートの隙間からもえいずる雑草さえ、さわやかです。街路樹のフクギからは鳥のさえずりも聞こえてきます。
 時刻表を見ると乗るべきバスの到着は少し先。出来たばかりのベンチに腰掛けて待つことにしました。昼前の日差しを丸い、高い屋根がさえぎりすこぶる快適。出来たてのベンチに腰を下ろしていると、よかったという思いがしみじみと湧いてきます。
 これまでバス停で待つ間の不満はたくさんありました。カンカン照りの中でいつ来るか分からないバスを待つとき、雨の中を傘を持たずにバスを待つとき、当地に初めて来るお客さんを迎えるとき。どれもこれももう大丈夫です。
 立派なバス停のおかげで街並みも一気にグレードアップしたようです。喜んでいるのはバス停の真ん前のおすし屋さんばかりではないでしょう。

(沖縄市 バス党)

(編コメ)お便りをいただいてから少し月日がたってしまいましたが、暑い季節になった今、なおさら屋根があってよかったと実感していることと思います。バスを待つ時間も有意義に過ごせそうですね。

牛乳のとりこになった私

 私は昭和19年「10・10空襲」の3カ月前に生まれました。戦争が始まると同時に母が大けがをし、おっぱいが出ず、生後3カ月の私は壕(ごう)の中で他人からおっぱいを分けてもらい、それだけでは足りず毎日泣いたそうです。
 「この子は育たないから殺してしまいなさい」と何度となく言われながら、祖母、母のふところに入れられ泣き声が聞こえないよう、皆の迷惑にならないように南部から中部へと逃げ回り生きてきたそうです。
 終戦後、父も戦地から帰り、無事に家族全員そろって暮らし始め、私も何を食べて生かされてきたのか今では不思議なことばかりです。いつも家族で戦争中の話、苦労話、父の戦地での話を小学校、中学校、高校生になるまで聞かされていました。
 私は小学生の頃から体が弱く、特に胃腸の弱い子でした。小学生のときに初めてミルク給食になり、私は飲むことができませんでした。それ以来、ミルクは飲んでいません。牛乳も口に入れたことがなく、そのおいしさも味も分かりませんでした。
 68歳のとき、おなかがゴロゴロしない牛乳を見つけました。飲んだらとてもおいしく、おなかがゴロゴロしない。68年間一度も飲んだことのない牛乳のとりこになってしまいました。それ以来一日も欠かさず飲んでいます。
 牛乳を切らすことなく、今では毎朝の楽しみの一つになっています。主人も冷蔵庫の牛乳を確かめ、ときどき買ってきてくれます。いまの私にはとても大切な飲み物です。
 おかげさまで骨密度も上がり健康になりました。ことし74歳、病気で一度も入院したことがなく、風邪やインフルエンザもかかったことなく、もし両親が元気でいるなら今の私を見て驚くだろうなと思うこのごろです。
 ありがとう牛乳。そして今は亡き両親。

(那覇市 カーコおばあちゃん)

(編コメ)戦争の混乱時に、お母さんたちは必死の思いで生きてこられたのですね。ミルク給食のミルクは、脱脂粉乳をお湯で溶かしたもので独特の臭いがして苦手な子どもも多かったようです。やっと、自分に合った牛乳をおいしく飲めるようになって良かったですね。これからも、お体に気を付けて元気にお過ごしください。

初めての授業

 ある年の5月、関西に住んでいる娘から電話がありました。「母ちゃん。A子(孫)のクラスでうちなーぐちの授業をしてくれない?」と言うのです。
 担任の先生が言うには「関西弁も方言の一つですが、沖縄の方言を授業に入れたい」と言うので娘に話がきたらしいのですが、娘はうちなーぐちは聞けても話すことはできません。それで私に授業をやってくれないかと言うのです。
 しかし、私は若いときから商売一筋で学校行事といえば運動会を見に行くぐらいで、授業参観などは主人に行ってもらっていました。
 しばらく考えましたが、引き受けることにしました。そのことを、学習塾を経営している友人に相談したところ、いろいろアドバイスをくれ、首里の方言で書かれた「桃太郎」のプリントをくれました。
 授業をするという前日に、担任の先生が娘の家に来られて大まかに授業の進め方を打ち合わせしました。
 当日、A子が校舎の前で待っていてくれました。
 そして、まずは校長先生にごあいさつをして教室に向かいました。自己紹介の後に、私の初めての授業がスタートしました。先生が大きな日本地図を黒板に掲げて沖縄の位置を示します。沖縄の基幹産業はサトウキビで、それから作られたのが黒糖ですと言い、私は持参した黒糖を生徒のみんなに配りました。「黒い。だけど甘い。おいしい」と言ってくれました。
 東を「アガリ」、西を「イリ」、イリオモテヤマネコがいる西表島と先生が板書します。先生と二人三脚なので私の心は落ち着いていました。「命どぅ宝」「いちゃりばちょーでー」「やーなれーる ふかなれー」などの意味を説明しました。そして桃太郎を読みました。
 「ンカシ ンカシ アルトゥクルンカイ タンメートゥ ンメーガ メンシェービータン。タンメーヤ ヤマンカイ タムン アガネーイガ…」「いま読んだ昔話はなんでしょう?」
 5、6人の生徒が手を上げて「桃太郎」と答えてくれました。分かるものなんですね。
 私の授業はほぼ時間通りに終わりました。帰り道、どっと疲れが出ました。
 後日、クラスの全員から、ありがとうの言葉と感想文が届き、先生からは2学期の社会科で沖縄を取り上げたいと書かれていました。うれしかったです。これは今も大事に取ってある私の宝物です。
 ちなみにあのとき、5年生だったA子はいま、オーストラリアの小学校で日本語教師をしています。

(那覇市 仲ユクイ)

(編コメ)初めての授業は大成功だったようですね。関西の子どもたちはもちろん、仲ユクイさんにとっても、とても良い経験になったと思います。A子さんは、仲ユクイさんの教える姿を見て誇りに思ったのではないでしょうか。教師になるきっかけの一つだったかもしれませんね。

学校大好き

 とにかく学校が大好きな小学1年生の息子。どんなに遅くても6時には起床。7時には校舎が開いてない学校へ行き、友達とグラウンドで遊ぶのが楽しいんだとか。
 それで、5時半ぐらいに起きて「今日の朝ごはんは?」と起こされるのが大変なので、妻がご飯の作り方を息子に伝授。毎朝おむずびを作ったり、目玉焼きをご飯の上に載せて丼にしたり、晩ご飯のおかずを器によそって食べたりしています。
 そんな中、台風が接近し学校が休校に。私は息子が、「えっ、今日は休みなの? やったー!」 と喜ぶ姿を期待して伝えると…「えっ、今日は休みなの? はぁ〜今日一日何をするの? つまんな〜い」。
 息子は本当に学校が好きなんだなと感じた瞬間でした。

(宜野湾市 りゅうすけ)

(編コメ)誰もいない広い校庭で思い切り友達と遊べるのが楽しいのかもしれませんね。今は夏休みですが、やはり学校へ行って遊んでいるのでしょうか? いずれにしても、食事を作れるようになったことは、お父さんやお母さんの助けになるので良かったのでは? ただ火を使う場合は要注意ですね。

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