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大航海時代ポルトガルは
海洋国家「琉球」をレキオと呼んだ
屋良三線屋職人
新垣睦美さん
9年前に初めて作った三線を手にインタビューに答える新垣睦美さん=宜野座村の「屋良三線店」
きっかけはカンカラ三線
国道329号沿い、宜野座高校向かいにこぢんまりとたたずむ「屋良三線屋」に新垣睦美さん(三一)=読谷村=を訪ねた。演奏家でありながら、自ら三線を作り出す職人でもある新垣さんは、愛知県名古屋市出身。両親の地元である沖縄に来て九年、師匠の屋良常雄さんの下で、三線製作に励む日々を送る。六畳一間のスペースには、完成した三線や、黒漆が塗られたつややかな棹が壁一面に並べられ、畳の上には原木や図面の引かれた棹が数本ねかされていた。
「大まかな削りが完了しているものを、やすりやサンドペーパーを使って一本ずつ作業をしているところです。光にかざして微妙なラインが出ているかを確認しながら、少しずつ仕上げていくんです。今日きれいに削られたなと思っても、次の日に見たらあれ? っていうときもあるんですよ」
状態を見ながら納得できる形になるまで、細かい作業を繰り返す。三線製作には、棹作りや皮張りなど実に多くの工程があるが、棹作りはどの段階においても細心の注意が必要とされる。オビノコやノコギリ、彫刻刀などを使い、機械作業と手作業を繰り返しながら慎重に進められていく。
「昔からものを作るのが好きなんです。絵を描いたり、頭に思い描いたものを形にするのが得意だった」
と話す新垣さんが、この道を進むきっかけになったのは、カンカラ三線を作ったことにあるという。
師匠の屋良常雄さん(左)とゆんたくを楽しむ新垣さん
弾き手の強みも自信に
「たまたま机の引き出しがポコンと取れて、これ使えるかなーと思ったんです。すごい軟らかい素材の木だったのでカッターで切って、三線の構図を思い浮かべながら作ってみたんです。買ってきた粉ミルク缶にはめたら音が出て演奏できたんですよ」
そのころ、大学卒業を間近に控え、将来の道を模索していたころだった。大学ではスワヒリ語を専攻し、アフリカの言語を中心に文化・政治経済全般について研究していた。当初は大学院に進もうか迷いもあったが、
「このまま言葉を究めてもどうかなと思ったんです。本当に好きなことは何かを考えて、絵を描いたり、粘土をこねてみたりいろいろ作り始めたんです。カンカラ三線を完成させたとき、あー、やっぱりこれだ! と思ったんです」
このふとした行動が、学業で忙しく忘れかけていた”大好きなもの作り“への気持ちを思い起こさせてくれたという。
弾き手としても活躍する新垣さん。三線との出合いは、高校時代にさかのぼる。休みの時期、沖縄の祖父母の家に行ったときのことだ。床の間に置いてあった三線にひかれ、古典音楽の師範である祖父に、ほんの数時間ではあるが教えてもらった。もっと弾いてみたい―名古屋に帰郷してからも、いつかは琉球音楽を習いたいという思いを抱き続ける。進学先に選んだ大阪で、転機は訪れた。
「たまたま見に行ったエイサー大会で先生を紹介してもらったんです」
一九九五年、上地礼子さんと出会い、三代目吉栄会に入門。野村流古典音楽と屋良流沖縄民謡を師事し腕を磨く。大学卒業後は名古屋に戻り、アルバイトをしながら本格的な三線を独学で作る。
「そのころは三線職人になれるとは思ってもいませんでしたが、もの作りの仕事に携われたらと考えていたし、三線も習っていたので本場へ行こうと決めたんです」
九八年、自作の三線を持って沖縄へ。上地さんの弟にあたる三代目吉栄会家元屋良常雄さんの下で、弾き手としての実力を伸ばす。同時に三線職人としての素質を見込まれ、作り手として新たな一歩を踏むこととなった。
「彼女が持ってきた三線を見て、これはいけると思いましたよ。作れる人は教えなくてもできる。才能があると思いました」と屋良さんは当時を振り返り、評価する。
「沖縄に来たころは、女性で若い者に作れるのかって言われたこともあります。でも、それはあまり関係ないと思えるようになりました。逆にその悔しさをコンクールや免許取得に向け、今につながっている」
作り手であり弾き手でもある強みが、自信につながっているという。最近では客から「これ、いい音するねー」とうれしい言葉をもらうことも多くなった。
今年からは沖縄をはじめ東京、仙台、大阪で三線教室を開き、活躍の場を広げる。「教えるために、工工四やCDを作って、大変だけど三線を中心に広がっていくのがすごく楽しい。今後は師匠のように作詞・作曲もできたらいいな」
自作の三線を手に、新たな目標を語る新垣さん。その夢はのどかな村に響く三線の音色のようにどこまでも広がっていく。
文・与那覇仁美
写真・國吉和夫(ISLANDER’S PHOTO)

あらがき・むつみ 1976年、沖縄県出身の両親のもとに生まれ、愛知県名古屋市で育つ。大阪外国語大学在学中に、3代目吉栄会関西支部長上地礼子氏に出会い、1995年に入門、野村流古典音楽と屋良流沖縄民謡を師事。大学卒業後の98年、沖縄県に移住。3代目吉栄会家元屋良常雄氏に入門、同時に三線職人の道へ。一方、民謡グループ「がらまん美童」のリーダーとしても活躍する。2003年琉球新報社主催の琉球古典芸能コンクール(歌・三線)で新人賞受賞。04年屋良流師範免許取得、05年野村流音楽協会教師免許取得。